移住をきめたきっかけは?
2011年におきた東日本大震災がきっかけでした。
東京の会社の事務所で帰宅難民になって翌日ようやく自宅には帰れましたが
混乱の中の東京で買占めなど都会の生活の危うさを痛感しました。
特定の商品だけ買占めがおきていて奪い合いがおきている状況をみて
物流が止まってしまったらお金すら意味のないものになるのだと思いしらされました。
一方で、自分のルーツである十日町ではみんなが食べ物をつくり分け合っている。
移住にあたり、収入面など心配がなかったといえば嘘になりますが、
十日町に住んでたら飢えに苦しむことはないし、むしろ飢えられません笑
この安心感は絶大ですよね。
移住先を十日町市に決めた理由は?
仕事はなぜ協力隊を選びましたか?
両親が十日町出身でもともと十日町にルーツがあるので十日町市を選びました。
地域おこし協力隊を仕事として選んだ理由は、
十日町に住みたいというのがありきで自由な仕事を模索して
それにフィットしたのが地域おこし協力隊でした。
退任後のお仕事は?
協力隊時代は飛渡地区全域の活動として、地域の皆さんが育てた野菜をあつめて、市内飲食店などに販売して地産地消を推奨する取り組みをお手伝いしていました。この地域でそだつ野菜のことをたくさん教えていただき、そのおいしさに気が付いて、このつながりを活かせるようにと、退任後は地産地消型をテーマにしたビアレストラン「ALE」を移住仲間4人でオープンしました。地域食材を極力使って、地元の方があまり料理しないようなレシピで提供をし、国産のクラフトビールと合わせて提供をしました。
お客様の声と地域の協力から生まれた
「妻有ビール」
ホップの栽培にも力を入れています!
お店の店長として、日本全国からクラフトビールを仕入れ、おいしく飲んでいただけるように提供の技術を勉強していました。当初は地元のお客様が多かったので、遠くのビールを取り寄せると喜んでいただけたのですが、観光客のお客様が増えてきて、なんで新潟まできて関西のビールを飲まなきゃならないんだというようなお声も聞こえてくるようになりました。ラインナップを見直して、新潟県や長野県を中心にしていたのですが、とうとう「十日町のビールはないのですか?」と聞かれるようになりました。
どうやったら作れるようになるのだろう?と調べはじめたのが妻有ビールの一番最初のきっかけです。
まずは作っている方のお話を聞こう!ということで、大好きだったブルワリーさんへ12か所くらい行ったでしょうか。聞けば聞くほどハードルは高く、設備の金額はかなり大きくていったんお蔵入りとなりましたが、東京で勤めていた会社の上司の方々が興味を持ってくださり資金の援助をしてくださいました。急転直下、立ち上げへ向けて進んでいくことになりました。2017年1月に会社を設立し、数々の苦難の連続でしたが、なんとか2017年11月に醸造免許を取得し、2018年1月より醸造を開始しました。
そして地域の協力のもと十日町産ホップの栽培にも力を入れており
協力隊時代に一緒に仕事をしていた池田太一さんが
2018春・耕作放棄地を再開墾をするところから協力してくれました。
1年目は猛暑で上手くできず
2年目は猛暑と渇水
3年目でやっと株も大きくなり、天候もバランスが良く形になりました。
池田太一さんがいなければ十日町産ホップは成し遂げられなかったと思います。
そして畑の手伝いもボランティアで地域の方々にやってもらっており
協力隊OG繋がりの高橋美佐子さんには畑の手伝いだけではなく
様々な場面でとてもお世話になっています。
協力隊時代の人間関係がビジネスを進めていく原動力になっています。
協力隊だった経験が今に生きているは
ありますか?
すべてにおいて協力隊の経験が生きていると思います。
まず工場の敷地も協力隊のときの人脈から見つけることができましたし、
販売開始以降も仲間がことあるごとに協力してくださり、助けてくれました。
地域のみなさんとのつながりも協力隊だった経歴からとても作りやすかったです。
越後妻有の魅力を伝えたり
クラフトビールを通じて地域に役立てる会社にしていきたいと思っています。